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くもり時々雨

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愛顔感動ものがたり 表彰式イベント 受賞作品を南海放送ラジオで放送

日時3月3日(月)~3月14日(金)の「ニュースな時間」内16:45頃から放送。
愛顔感動ものがたり 表彰式イベント アーカイブ配信
受賞作品を南海放送ラジオで放送

南海放送ラジオで、受賞作品の中から10作品を朗読でご紹介します。
放送日:3月3日(月)~3月14日(金)の「ニュースな時間」内16:45頃から放送。
朗読:佐伯りさ
放送後こちらのページでもご紹介します。

一般の部
知事賞
3/14放送
「カモメ対メダカの午後」長濵眞理(大阪府)

母は、昭和一桁生まれ。世界恐慌の最中に生まれ、戦時体制の真っ只中で幼少期を送った女性である。お向かいのおばちゃんも同世代で、二人は幼い頃からのご近所さん。

二人は激動の時代を逞しく生き抜いた豪傑女性だけれど、九十歳を迎え、今度は新たな得体の知れない敵、認知症と戦うことになってしまった。

あんなに強かった二人なのに、九十年という歳月を戦い続けてきた脳は大層お疲れのようで、敵に攻め込まれている。

「しりとりとか頭の体操になってええらしいよ」我が家でお茶会をする二人に、提案してみる。

「アホらしいなぁー。しりとりなんかせんでも私ら頭ええよなぁー」と二人は自信たっぷりに言う。

「いくでー。いくでー。ほな、メダカや」

「メダカかぁ。カやな。カやな。カモメや」

「カモメかぁ。メやな。メやな。そやなぁ、ほな、メダカや」

「メダカかぁ。カやな。カやな。そや、カモメや!」

「カモメかぁ~。メやな。メなぁ~。何があるかなぁーそやなぁー、メダカや!」

進まないし、終わらない。

九十歳認知症の乙女たちは、こうしてしばらく『カモメ対メダカ合戦』を笑い転げて楽しみ、活き活きと戦った。

そんな漫才のような日々は長く続かず、二人は徐々に認知症に侵略されていった。母は私を忘れていき、おばちゃんも脳梗塞を起こし倒れる。

時間は待ってくれない。母が私に問う。

「あんたのお母さんは元気にしてるんか?」ゼリーをひとくちスプーンですくって、泣きたい気持ちと笑顔を合わせ、母の口に運ぶ。

もう戻らない。あの底抜けに明るい穏やかな午後を思い出しながら、無邪気に笑う母の頬を優しく撫でた。

高校生以下の部
知事賞
3/13放送
「僕の一番の味方」北川晴揮(愛媛県)

「天才肌でええオトコになれよ」

たったこれだけ。父から僕への最後の手紙だった。父が生きるのが辛くて逃げ出したこの世で、父が自ら死んでしまったという人生最悪な出来事を僕に背負わせて、何で僕には前向きに生きろみたいな無責任な手紙を残すのか。二年前の春からずっと、怒りなのか悲しみなのかよくわからない感情でぐちゃぐちゃだった。

「お父さんがどんな風に死んだかじゃなくて、どんな風に生きとったかを思い出してみて。」

しばらく経ったある日、祖母が言った。

真面目で優しくて、ちょっと冗談が通じないところがあって、でも自分が冗談を言うのは好きで、自分で言って自分で大笑いしている、ちょっと変わった人だった。

僕がまだ幼い頃、友達の輪の中に入って遊ぶのを嫌がって一人で居たがるのを、母が心配して父に相談したことがあった。父は、
「晴揮は天才肌やけんな。天才は子どもの頃からちょっと変わっとるんよ。将来が楽しみやな。」
と笑っていた。今思い返すと、何かの度にそう言って僕に笑い掛けてくれていた。天才なわけないやん。と思いながらも、僕も悪い気はしていなかったのを覚えている。そうだった。僕はきっと、ずっと父の言葉で、父の笑顔で支えられていたんだ。だから僕の味方である大切な父を失って、すごく辛いんだ。そう実感すると、涙が止まらなかった。だけど心が少しだけ軽くなった気がする。

今も父には怒っている。父に会えないのが辛い。でも、父の言葉や笑顔を思い出すと、頑張ろうと前を向ける。頑張って生きる僕を、父もどこかで笑って見てくれているかもしれない。

一般の部
特別賞
3/12放送
「ご飯のケーキ」益川知実(千葉県)

当時、小学5年生の息子と1年生の娘をかかえたシングルマザーの私は、資格取得を目指し週に数回、子供たちに留守番をさせて夜間スクールに通っていました。

そんなある日、授業を終えて戻ると玄関に娘が立って通せん坊をします。はいはい、お母さんは疲れてるのよ、と心でつぶやきながら靴を脱いだ時、ダイニングの電気が消えました。もう、いたずらは勘弁してよ、と中に入るとテーブルの辺りがボ~っと明るくなっています。

よく見ると、平たい洋皿にご飯をホールケーキの形にして、ふりかけをかけ、梅干や佃煮や漬物、それに刻んだ海苔を飾って、中央にはなんと仏様のろうそくを立てて火をつけています。

びっくりする私に、二人が手拍子を打ちながらハッピーバースデーを歌ってくれるではありませんか。歌い終わり、ろうそくを吹き消して電気を付けると、テーブルには牛乳を入れたコップと二人の手作りバースデーカードと、そして、世界一のバースデーケーキが置かれてありました。

その頃の住まいはニュータウンの真ん中で住宅地域、近くに子供が買い物に行けるような商店はなく、何よりシングルマザーになりたての私には子供たちに十分な小遣いを持たせる事もできませんでした。

そんな中で、私の留守中に二人が相談し合って〝ケーキ〟を飾り付けていたのかと思うと嬉しくて嬉しくて、この子たちの為に絶対頑張ろうと心に誓いました。

その後、二人は大学を卒業し、就職し家庭を持ち社会人になりました。私の還暦にはホテルで真っ赤なケーキを用意してくれ、料亭で古希の祝いもしてくれました。

でも、ごめんね、やっぱり私の誕生日の一番は、あの時のご飯のケーキなのよね。

高校生以下の部
特別賞
3/11放送
「あの日の母の笑顔」仲倉玄瞬(愛媛県)

私は小さい頃、父と母を病気で亡くしている。父は、私が産まれてわずか三ヶ月で脳出血を患って亡くなった。そのため声や性格などもわからない、顔だって写真を見て初めて知った。それと違って母は、私が小学一年生の時に癌で亡くなった、そのため顔や性格、声なども覚えている。しかし一番しっかりと覚えているのは、亡くなった時の母の表情だ。その時の表情は、言葉では表しにくいが、とにかく爽やかに笑っていた。私にはその笑顔の中に数えきれないほどの思いがあると思っている。両親がいないということもあり、辛いなとか、寂しいな、などと思うこともあった。そんな時に母の笑顔を思い出すと、「父と母が空から見守ってくれているから明日からも頑張ろう」と、前向きな気持ちにさせてくれる。母の笑顔には、何回も救われた。

私が中学二年生のある夜、いつものように布団へ入った。その日は疲れていたということもあってすぐに寝てしまった。目が覚めたと思ったら、そこには母が立っていた。私はびっくりしていたが、七年ぶりに母に出会えたと思い、本当にうれしかった。その時の母は私に何かを言うわけでもなく、ただただ私を見つめて爽やかに笑っていた。そして気づくと朝になっていた。私はいつもなら夢を見ても次の日には、忘れることがほとんどだ。しかしこの夢はしっかりと覚えていた。なぜ昨日、母が夢に出てきたのだろうと不思議に思っていた。その日は八月十五日、母の命日だった。母は、私のことを心配して夢に出てきたのだと思った。私は仏壇へ行き手を合わせて、「心配してくれてありがと」と呟いた。私は母の笑顔を見て、笑顔は人の心をあたたかくすることのできるうつくしいものだと思った。

私は、夢を見た日から誰に対しても笑顔で接することを意識している。

一般の部
優秀賞
3/10放送
「負けたよ…おまえには…」長谷川潤(滋賀県)

中学2年生の美術の授業。校内で一番厳しく恐い先生の授業は、画用紙の上を走る絵筆のかすかな音さえ聞こえそうな静寂に包まれ、教室の空気がピーンと張り詰めている。これほどまでに緊張感が漂う中で絵が描けるのかな…なんて思ったその時、異変に気づいた。

体調を崩してしばらく入院し、前日から登校を始めたばかりのA子がお漏らしをした。そしてその刹那、ガッシャーン、ドタドターッ!耳をつん裂くような音と共にA子の隣に座るS君が机ごと床に転がった。A子の紺色のセーラー服はS君のパレットに出された絵の具や筆洗い容器の濁った水で見るも無惨に汚れ、濡れてしまった。

つい居眠りをして机ごと転んだと言い訳をしたS君をまるで鬼のような形相の先生が雷のような大きな声で叱った。体操服に着替えて戻ってきたA子は、誰にも聞こえないような小さな声で「ありがとう」とS君に言った。S君はA子を見て何も言わずにわずかに微笑んだ。そして何事もなかったかのように美術の授業は続いた。

この出来事の真相を知るのはA子とS君…そして私だ。だけどS君もA子も二人だけの秘密だときっと思っている。あの時、あの瞬間、A子に恥ずかしい思いをさせないために先生に叱られることを覚悟の上、自作自演で自分を犠牲にしたS君…これまで経験したことのない事態に直面し、本当はA子のことが好きだったのにアッと驚くだけで思考も体も硬直し全く何もできなかった自分…子どもながら、人として男として「負けた」と思った。

絵の具で汚れたS君の制服が、何故か私には輝いて見えた。あれから30年の歳月が流れ学年9クラス合同の同窓会が開かれた。郷里から遠く離れた京都で警察官となった私は同窓会に初めて出席した。同じテーブルにA子さんが、少し離れたテーブルにはS君があの時と同じ笑顔で座っている。二人の面影は変わらない。変わっていたのは二人の姓が同じになっていたことだった。

高校生以下の部
優秀賞
3/7放送
「いびつな雑巾」中川桃佳(愛媛県)

母が亡くなってから父と二人暮らしを始めることになった。突然のことで、感情の整理が追い付かなかった。一番身近で支えてくれていた母がいなくなってから、感情をコントロールするのが難しくなった。苦しいのは私だけじゃないのに、思春期なのもあいまって、父へ対して強く当たってしまうようになった。そのたびに素直になれない自分が嫌で、申し訳ないという罪悪感があった。それでも、父はいつも通り気さくに話してくれていた。

「明日雑巾持っていかないかんのやけど、どうしよ。」これは始業式前日の夜に私が父に言った言葉だ。次の日が始業式だということを忘れていた私は、雑巾が二枚必要だということに気付いた。急いで父に話したが、夜遅くだったためお店はどこも閉まっている状態で、買いに行くこともできず、正直に先生に言うしかないと思い、諦めて次の日を迎えた。次の日の朝、父はいつも通り仕事で私より家を出る時間が早いため、もう家を出ていた。リビングへ行くと、そこには母が使っていたミシンと、父が縫ってくれたであろう縫い目がいびつな雑巾が置かれていた。おそらく私が寝ている間にミシンで作ってくれたのだろう。私はすごくうれしかった。父は決して裁縫が得意ではない。得意ではない裁縫を不器用ながらしてくれていたと思うと、申し訳なさと同時に感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。

母が亡くなってから、もう一年が過ぎ、何不自由なく幸せに暮らせていた頃には戻れなくても、幸せに暮らせるように支えてくれている父にはとても感謝している。私は、今はまだ愛情を注いでもらう側だけど、これからたくさん親孝行して、父を何不自由なく暮らせるように支えていける人間になりたいと思う。

一般の部
優秀賞
3/6放送
「コウレイシャより愛をこめて」渡辺廣之(大阪府)

国際線ターミナル。発着案内板の電光表示が、娘たちの乗る飛行機の「関空着」を告げる。一歳半。ビデオ通話の画面の中でしか会えなかった初孫と、やっと対面できる。新型コロナの余波を受け、パリで暮らす娘たちの里帰りがなかなか実現しなかったのだ。

待つこと約二十分。七年前、パリ暮らしを決意した娘を見送ったのもこの空港だった。ネイリストの職を見つけ、フランス人の彼氏と出会い、可愛い初孫が誕生した。……長いようで短かった七年間を振り返る私。

娘に抱かれた初孫は、愛想よく笑みを浮かべる。ビデオ通話の画面でよく見かける私の顔を、きっと覚えていてくれたのだろう。しかし、言葉はまだ喋れなかった。

そんな初孫が、帰省中のひと月の間に、日本の言葉を話せるようになったのだ。デンチャ、ヒコーキ、キューキューチャ……。「パリへ帰ると日本の言葉は役に立たないのに」と、複雑な心境の私。その一方で娘は、「バイリンガルに育てたい」と、上機嫌だった。

そして、あれからもう一年。ビデオ通話の中で、二歳半になった初孫は、音程を外しながらも「はたらくくるま」を歌ってくれる。日本語で覚えた車の種類も増え、床に並べたミニチュアカーで遊んだりしている。フランス語を話せない私には、初孫との対話はできない。初孫のいじるおもちゃを、「クレーン車、ミキサー車、消防車、はしご車」とたどって話しかけるのが精一杯である。

「お父さんももう高齢者なんだから」と、娘が私の体調を気遣う言葉を発したときである。初孫が対話に割り込んできて、「コウレイ車?」と興味津々、ビデオ通話の画面に食いついた。しかし映っていたのは、新たなはたらく「くるま」ではなく、もうはたらかない年金暮らしの「じいじ」だった。そんな初孫の仕草や表情が可愛い。あれ以来、ビデオ通話の向こうで、初孫は私を、笑顔で「コウレイシャ」と呼ぶようになっている。

高校生以下の部
優秀賞
3/5放送
「ありがとうね、こころさん」濱本こころ(愛媛県)

「私、あなたのおかげで楽しかったわあ。ありがとうね、こころさん。」

私のまだまだ短い人生の中で、心から嬉しかった言葉だ。中学生のとき、職場体験で老人ホームへ一週間うかがったことがある。そこには、遊ぶのが大好きな人、昼食をとても楽しみに待っている人、おしゃべりするのが大好きな人など、いろいろなおじいちゃん、おばあちゃんがいた。その中に、認知症が進んでいて、名前も覚えられないようなおばあちゃんがいた。何度も自己紹介をして、何度も同じ話をしなくてはならない。毎日同じことの繰り返しで、正直嫌気がさしていた。それが職員の方に伝わってしまったのか、「あのおばあちゃんは、長く一緒にいる私たちの名前もあやふやなんよ。」と小さな声で言われた。「でも、名前を覚えてくれなくても、楽しそうにおしゃべりしてくれるのが嬉しくて私たちも頑張れるんよ。こころちゃんも、あと少しの間頑張ってくれん?」とお願いをされた。そうか、覚えられなくたって、こうやって関われることが、介護士さんにとっては嬉しいことなんだ、と私はそこでやっとやりがいを感じた。

それからは「一緒にお話しましょう。」「ボールを使って遊びましょう。」と、関係を深めたいという一心で、おばあちゃんとの時間を過ごした。そして最終日、おばあちゃんに、「今日で職場体験が終わります。五日間とても楽しかったです。本当にありがとう、おばあちゃん。」と挨拶した。そして返ってきた言葉が、「ありがとうね、こころさん。」だった。私は感動して、思わず涙を流した。職員さんも、驚いたような、感動したような顔で、目を合わせていた。認知症のおばあちゃんが、名前を覚えてくれたのだ。おばあちゃんはもう、私の名前を忘れてしまったかもしれない。でも私はあの時の感動を、忘れることはないだろう。

一般の部
優秀賞
3/4放送
「専属美容師」藤川香那(愛媛県)

父はあまり感情を出さない人。自分の気持ちを言葉にするのも得意なほうではないと思う。

高校生の頃私は美容師に憧れて、進路を決めた。

美容学校で髪の毛のカットを学び始めて間もなく、家に帰って「お父さんの髪切ってあげる!」と父に言った。「おぉ!切ってくれるか?」と父は嬉しそうに言った。

思っていたより難しくてちょっと短くなり過ぎたところもあるけど、なんとか完成した。「ありがとうありがとう!さっぱりした!上等じゃ!こりゃぁええ。」と父はとても喜んでくれた。

母は、「なんかここが短いけんスズメみたいになっとるよ」と笑ったが、父は「えぇんよ。すぐ伸びるし、こうやってやりょうるうちにだんだん上手になるんじゃ。」と言って、「わしは専属美容師が付いとるんで。芸能人じゃ。」とニンマリ笑った。

父は、友達や知り合いに「髪切ったん?」「かなちゃんに切ってもらったん?」と聞かれては「ほうよ。わしゃ専属美容師が付いとるけぇ。えぇじゃろう。」と笑って答えていた。

ふだん感情を出さない父が喜んでくれるのが嬉しくて、私は髪を切る事が大好きになった。

美容院に就職してからも、結婚して遠くに住むようになっても、「髪切ってもらおうかのぅ」と父が言うと、切っている。昔は硬くて毛量が多かったが、歳を取り毛量も少なくなった。病気のせいもあり、口数も減ったかなと思う。髪を切っている間は目を閉じてよく寝ている。

でも切り終わって、「できたよ」と声をかけると「あーサッパリした!ありがとありがと。気持ちがえぇわ。良うなった。これで床屋も1ヶ月行かんでえぇど。」と愛顔で喜んでくれるのはずっと変わらない。

そしてリビングにいる母にこう言う。「どうじゃ。良ぅなったじゃろう。専属美容師が切ってくれたで。」私も言葉にするのは得意じゃないけれど、父への感謝や恩返しの気持ちでこれからも父の髪を切る。ありがとうお父さん。

高校生以下の部
優秀賞
3/3放送
「僕らは支えられていたんだ」谷真乃介(愛媛県)

「僕らはみんな生きている。生きているから嬉しいんだ。」これは、僕の大好きな歌だ。この歌の意味を痛感する日が来るなんて。

僕の「行ってきます」「ただいま」を待っている家族の笑顔。それが壊れたあの日のことは、あまり思い出したくない。しかし僕が前より強くなった日だから、しっかりと心に刻んでおきたい。

僕は昔から健康で、幼稚園では皆勤賞をもらった。毎日学校へ行き、習い事など、とにかく楽しい日々を過ごしていた。ところが、四年生の一学期、ものすごいだるさに襲われた。家族が心配したけど、僕はその日も頑張って学校へ行った。でも、友達みんなが話す声の大きさに、僕は目が回り、倒れそうになった。僕は、小学校生活で初めて早退をした。

次の日、大きい病院へ連れて行ってもらった。強がってはいても、正直、注射は大嫌いだ。病気を調べる検査が始まった。綿棒を鼻につっこまれたり、頭の上に機械が来たりと、一つの検査が終わるたびに、次はどんな検査をするだろうと怖くなった。長い検査を僕は頑張った。今までで一番、自分が誇らしく、根性があるなとほめてやりたかった。

僕は、入院することになった。何の病気かわからないままで不安だった。このまま一年くらい入院するのだろうか。けれど僕は、元気を取り戻した。家族からのはげまし、先生や友達からの手紙。こんなにも多くの人に支えられていたんだと感じた。

心が元気になると、やりたいことが浮かんできた。もう一度バスケットがしたい。弟や妹と公園へ行きたい。じいじの家に行きたい…もう一度僕に健康になるチャンスをください。僕は、たくさんの薬や注射に耐えた。

僕は、生きている。元気になったから今日も笑っている。ありがとう。元気な体は、きっと世界中に笑顔の花を咲かせるのだ。これからも僕は、この体を大切に生きていきたい。

愛顔感動ものがたり 表彰式イベント 概要
愛顔感動ものがたり 表彰式イベント
日時
2025年2月23日(日)開場13:30/開演14:00
場所
愛媛県県民文化会館 メインホール
入場料
入場無料
入場券のお申込み方法
入場券のお申込み受付は終了しました。
お問い合わせ
愛媛県文化振興課
TEL:089-947-5480 [受付時間 平日 8:30-17:00]
E-MAIL:bunkashinko@pref.ehime.lg.jp

Eventイベント情報

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