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番組審議会

番組審議会とは、南海放送が放送する番組の向上改善と適正を図るため、放送番組等の審議を行うことを目的として設置された審議機関です。


第728回 番組審議会

第728回番組審議会が、6月17日(火)本社8階役員会議室で開かれました。
7名の委員より、テレビ、ラジオそれぞれの合評番組について審議が行われ、テレビ番組では南海放送が制作した「戦後80年報道特別番組 少年志願兵-誰が背中を押したのか-」について、委員から次のような意見が出されました。

テレビ番組
「戦後80年報道特別番組 少年志願兵-誰が背中を押したのか-」

放送日時:2025年5月17日(土)10:30~11:25(南海放送制作)

番組概略

大戦末期、陸軍のように徴兵に頼れない海軍では、年間20万人を超える志願兵が自ら戦地へと向かった。その多くが、徴兵検査の対象年齢20歳に満たない少年たち。自ら志願した少年たちが日本の戦争を"下支え"し、国家も彼らを"あて"にしていた。空襲・原爆も含めた戦場体験のあまりの悲惨さや徴兵による出征のあまりの理不尽さに、従来の番組や歴史研究では、これらのテーマが中心だった。しかし、だからこそ、太平洋戦争の実態を考える上で、こうした「少年志願兵」の存在は見逃せない。少年たちはなぜ、戦地へ向かったのか。インタビューのほかに、これまで看過されてきた資史料や最新の研究成果も加えながら考える。

「なぜ志願したのか」という少年たちの意思決定をテーマに、かつての「少年志願兵」たちを取材した。彼らはこれまで「自ら選んだ道」と信じていた。しかし、戦後80年にあたり取材を進めていくと新たな仮説が浮かび上がってきた。「自分は実は何かに押されて、選んでいたのではないか...」。少年たちを戦地へ向かわせたのは何だったのか。彼らの背中を「押していた」のは誰だったのか。

各委員の意見
  • 非常に価値のある内容で、ある意味言いづらかった事実を聞くというトライをしたとても重い番組であったと受け取った。そして「誰が背中を押したのか」というフレーズは、7人の方々に取材を重ねた結果、見つけた言葉だったのだろうと思った。ここから先、戦後81年目82年目になって、戦争があった事実は変わらない中で、そうした過去の事実をこれから何かの目的に変えていくのかどうかについては、放送記者それぞれの考え方がとても重要になるのだろうと感じた。
  • 平和への希求は当たり前のことですが、「国や自治体の判断には目を光らせろ」「思いを自由に発言できているか」「言論が統制されていないか」「メディアリテラシーを高めよう」などいろいろ考えさせられる要素が盛り込まれていたと思う。志願の背景を当時の振り返りや、研究者の記録から浮かび上がらせるねらいは見事に成功していたと思う。当事者の言葉は重く視聴者に強く響いたのではないか。
  • どのように評価するか非常に難しい番組ではないかとも感じたが、自分の命にもかかわる判断が意図的に作られた雰囲気や、事実に基づかないことに左右させられるとしたらとんでもない話。世界のどこかで戦争が続いている現代においても、その危険性が大いにあるということを改めて考えさせてくれる素晴らしい番組だった。
  • 少年たちの背中を押し、親も世間体を気にして子を戦地に送るいびつな社会が生まれた背景はどうだったのか。狭いコミュニティや親や教師やメディアが背中を押したのだとしたら、その彼らを押したのは何だったのだろうと様々なことを考えさせられた。日本でまた同じことが起こらないと言い切れるのだろうか。多くの問いをこの番組は投げかけてきたように思う。
  • 皆が正しいというならそれが正義、国の為に働かないことは悪、そうでなければ孤立して炎上。集落や小さなコミュニティが纏う「空気感」は、現代のSNSが持つものと同じだと思った。若年層にたくさん見てもらえればいいと感じた。

続いて南海放送が制作したラジオドラマ『十円易者・村上桂山~二百万人を占った男~』の合評を行いました。委員の主な意見と感想は次のとおりです。

ラジオ番組
ラジオドラマ「十円易者・村上桂山~二百万人を占った男~」

放送日時:2025年5月31日(土)12:00~13:00(南海放送制作)

番組概略

村上桂山は昭和14年から昭和51年まで38年間、愛媛県松山市の繁華街で手相占いをしていた実在の人物です。明治38年、山口県佐賀村の貧しい農家に生まれた桂山は15歳で故郷を離れ、禅寺で修行を重ね、戦前に松山に来て街頭易を始めました。箱車と名付けた屋根付きの荷車を引いて町へ出かけ、その箱車に座って客を待つのが桂山のスタイル。その見料は、たったの十円。いつしか彼は『十円易者』と呼ばれるようになりました。毎日数百人が桂山の前に列をつくり、その数は延べ人数200万人以上にのぼると試算されます。

桂山は悩みを持って訪れる人たちに、俳句でも川柳でもない"独特な文句"を紙片に書いて渡しました。「秋深し 隣は隣 うちはうち」「きょろつくな 道はひとすじ 墓の穴」「死なざれば 生まれたことが ウソになる」。

昭和51年、仕事場の箱車の中で心不全に倒れ、71歳で没した桂山。それからしばらくして、松山市三番町の歩道、最晩年の桂山が毎日座っていた場所に、忽然と「桂山地蔵」が現れました。彼を慕い、その人柄を愛した人たちの手によるものだと言われており、今も同じ場所に立ち続けています。

そんな桂山が、同じ山口県出身で松山にて生涯を閉じた"放浪の俳人"、種田山頭火と出会ったとしたら・・・。史実とフィクションを織り交ぜて村上桂山の生涯をラジオドラマで再現しました。

各委員の意見
  • 村上桂山と種田山頭火の対話という発想に驚いた。身の上話から川柳対決、戦争回顧など、テーマを持たせたうえでの展開は非常に興味深く、多くのリスナーの心を惹きつけたと思う。ドラマの中では戦争の苦い思い出があり、それぞれの人生の背中を押して、人としての道を教えたかった、若い世代に明るい未来の暗示をかけていたことなどが示されたが、戦争の記憶を語らせたのは、戦後80年の節目を意識してのことだったのか。
  • 郷土に生きて一つの現象を起こしていた人物の事実を、ラジオドラマに置き換えるという演出戦略は、南海放送が今考えているラジオの魅力を新たに提案していく意味でとても有益だし、何よりも脚本を考える人がいなければ話が前にすすまないわけで、県出身の脚本家が出てきて、ストーリー全体もローカルな内容だったことは、我々県民に何か力を与えてくれた気がする。
  • 村上桂山が占いの際に相手に発した応援のメッセージは、現代人にも当てはまるものだと思う。戦時中は、戦争を鼓舞する軍国主義に沿った言葉を発したりしたようだが、それを反省しながらも淡々と語るところ、そしてその死生観に心に響くものがあった。いろんな世代の人に聴いてもらいたい素晴らしいラジオドラマだと思った。
  • 奇想天外なのだけれど、突拍子もない話ではない。あったかもしれないと思わせる力を持っていた。それぞれの役を演じた方々も楽しんでやっていると感じられ、聴く側もついつい引き込まれていく、最後まで飽きることが無かった。
  • 「十円易者」というネーミングがわかりやすく、とても楽しく聴かせてもらった。松山にはまだまだ知られざる偉人がいることに、地域の奥深さを感じた。村上桂山と種田山頭火が出会ったらという発想が突拍子もなく、それこそ設定や出会いの作りかたを考えるに当たって、岩城一平さん(脚本)の想像力が膨らんだのだろう。あの世の人と話すという出会いが面白かった。

以上
(番組審議会事務局)

番組審議会委員名簿

稲葉隆一(委員長) 大一ガス(株) 代表取締役会長
村田毅之(副委員長 松山大学 法学部教授
山田ひろみ 陶芸家
徳田明仁 愛媛大学 ミュージアム准教授兼広報室副室長
近藤路子 (株)フードスタイル 代表取締役
宇佐美まこと 作家
長井基裕 愛媛新聞社常務取締役常務執行役員