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Eventイベント情報

愛顔感動ものがたり 表彰式イベント

日時2024年2月24日(土)
場所愛媛県県民文化会館
愛顔感動ものがたり 表彰式イベント アーカイブ配信
受賞作品を南海放送ラジオで放送

南海放送ラジオで、受賞作品の中から10作品を朗読でご紹介します。
放送日:3月11日(月)~3月22日(金)のTips内13:30頃から放送。
朗読:佐伯りさ

知事賞

3/22放送「回り道」城戸美佐(愛媛県)

その日は朝から倦怠感が酷く、体温測定したら三十八度だった。またか、と思った。

私は妊娠九か月。結婚して二回流産し、三回目の今回も不正出血や悪阻など、体調不良が続いた。心配で病院受診することにした。

私は車を持っておらず、バス停留所も歩いていくには遠かった。その為、新谷タクシーにお願いした。すぐ迎えに来られ、運転手さんは「一番近い道を通って行くからね。」と言われた。丁寧な運転で病院に到着できた。

受診では赤ちゃんの異常もなく、ほっと一安心した。点滴で随分楽になり、抗生剤の処方を受け取った。再度新谷タクシーに帰りのご連絡をした。

思ったより迎えのタクシーは早かった。その時、「帰り道は来た道と違っても大丈夫?」と聞かれた。私は「お任せします。」と答えた。

タクシーは病院を出て、割とすぐ左折した。裏道だろうか。結婚してこの町に来てまだ一年半。通ったことのない道だった。春の霞んだ空が窓から見えた。いつの間に春が来たのだろう。妊娠してから一日一日を数えるように過ごしてきたのに、突然あっという間に今になったような錯覚を覚えた。

その時、私の目の前に黄色い絨毯が飛び込んできた。それは川のそばに一面に広がっていた。一斉に太陽の方に顔を向けて勢いよくキラキラ咲いている。菜の花だ。菜の花畑だ。その美しさに私は思わず感嘆の声を上げた。

運転手さんは「五郎の菜の花畑よ。今、最高にきれいやけんね。少しでも気晴らしになったらええと思って。」そしてメーターを切り私に言った。「朝、病院まで一番近い距離で走ったから、料金はわかる。帰りは少しだけ距離が長くなるけど、自分で選んだ道だから朝の金額でお願いします。」

あれから二十二年。春になると心の写メで切り取った菜の花の風景と、広くふかふかの心で接してくださった運転手さんのことを昨日の事の様に、鮮やかに思い出す。

知事賞

3/21放送「未来のノート」越智亮介(愛媛県)

私は、母のことを知らない。人柄はどうだったのか、何が好き・苦手だったのか、口癖は何だったのか。何一つ知らなかった。

私が2歳のころ、母は、病気によってこの世から旅立った。何が起きたのかもわからなかった私を、父は葬儀後、祖父母がいる愛媛に連れて帰ってきた。しばらくは父の兄弟も祖父母の家に来て、私の世話をしてくれた。保育園に入ってしばらくして、私を毎日送り迎えしてくれるのが祖父母と父であり、周りは母親が送り迎えをしていることに疑問を感じ始めた。ある日私は、父や祖父母に「なんで周りはお母さんが迎えに来ているの?」と質問をした。父は「アイス買いに行こうか。」とごまかした。今思えば、父に申し訳ないことを言ってしまった。私が6歳になったころ、父は母がこの世を去っているんだと話してくれた。本当は自分自身でもどこかで分かっていたけれど、いないと聞いたときは泣き叫んでいた。中学生になったころ、私は部活動の人間関係で悩むことが増えた。精神的に限界になったとき、父がドライブに連れて行ってくれた。父は車の中で「逃げたい時は逃げてもいい。だけど自分にとって後悔が残るなら戻ればいい。」と言った。そして、この言葉は、父が仕事や人間関係で悩んでいるとき、いつも母が言ってくれたのだと話してくれた。私はこの言葉をきっかけに、もう一度頑張ってみようと思った。高校生になったある日、父と倉庫の整理をしていた私は、ある段ボール箱を見つけた。中には、私の幼かった頃の写真と、何冊もの成長日記が入っていた。ページをめくると、母の字で、私ができるようになったことや嬉しかったことが書かれていた。あるページで私の目は止まった。そのページには、「優しく、誰にでも愛される存在になってほしい」と書かれていた。

母は亡くなるまで、私のことを愛情いっぱい大切に育ててくれた。私はそのことを知り、どんなに時間が過ぎようが、母は私にとって唯一無二の存在だと思った。

特別賞

3/20放送「いつでもどこでも」箱田香奈子(大阪府)

「ドアが開きまーす」「ドアが閉まりまーす」

15年前。当時3歳の息子は、バスや電車が大好きだった。特に、このドアの開閉の際のフレーズを気に入り、家ではお風呂のドアをそれらに見立てて、毎日のようにごっこ遊びを楽しんでいた。あまりにも長時間続けるので、「もー!ドア壊れるやろー!」と何度叫んだことか。

私の実家に遊びに行くと、それが行われるのはお風呂だけではなかった。実家はマンション。そう、エレベーターという願ってもないものがあったのだ。息子は嬉しすぎて舞い上がっていた。乗る度にささっとボタンの前に立ち、背筋をピンと伸ばして例のフレーズを丁寧に言う。車掌というより、もはやエレベーターガールである。

息子が毎日飽きもせずにごっこ遊びを楽しんでいたそんな時、父が突然病に倒れ、天国へと旅立ってしまった。あまりにも急な別れで、夢のように感じては、横たわった父の姿に現実を思い知らされ・・・笑っていても次の瞬間涙が出る。家族皆がそんな状態だった。父が亡くなったのは元日、しかも大安だった。おかげでそれ以来、私は大安に安心することも、仏滅に恐れることもなくなった。お正月ということもあり、親戚も大勢集まってくれてにぎやかだったが、それでも葬儀場の待合室では気が重く、皆静かに過ごしていた。そんな中、あのフレーズが聞こえてきたのである。

「ドアが開きまーす」「ドアが閉まりまーす」

「ん?」と声のする方を見ると、なんと父の眠っている棺の小窓をパタンパタンと開閉しながら、息子がいつものごっこ遊びを楽しんでいるではないか。「まじか!?」私は思わず爆笑した。家族も親戚も、あれほど悲しみに打ちひしがれていた母でさえも大笑いした。人生で一番悲しい時にも笑わせてくれるとは、子どもってすごい!

棺の中の父も、大好きな孫の愛顔にきっと笑顔になったことだろう。その父の姿を想像するとまた笑える。最後の最後に、またひとつ、父との楽しい思い出を増やしてくれた息子に感謝である。

特別賞

3/19放送「父の誕生日プレゼント」池内沙藍(愛媛県)

二年程前の父の誕生日。私の母は、一か月くらい前から、父に秘密で入念に準備を始めた。姉と私にも協力をあおぎ、いくつかのプレゼントを用意した。姉は、消しごむはんこを作った。私は、簡単なレシピを調べて、スコーンを作った。母は、使い捨ての眼鏡ふきと、父の仕事で使えそうなガチャポン、そして、タクシーチケットを用意した。このタクシーチケットとは、母の手作りのチケットで、飲み会などで帰りが遅くなったとき、このチケットを使うと、母に文句を言われず、気持ちよく迎えに来てもらえるというチケットのことだ。

そして、ついに迎えた父の誕生日。私たちは、父の帰りを楽しみに待っていた。帰ってきた父を、三人の「ハッピーバースデー!」という歓声でむかえ、準備していたプレゼントを渡した。

まず、姉の消しごむはんこは、材料費こそ百円だが、百円とは思えないほどのクオリティで、父の仕事でも使いやすいデザインになっていたので、父はとても喜んだ。私のスコーンも、おいしいと喜んでくれた。そして、母のプレゼントを開けて、眼鏡ふきやガチャポンは喜んでくれたが、タクシーチケットを見て、父の表情が変わって、こう言った。

「税金チケットって何?」

母が一枚一枚愛を込めて作ったタクシーチケットには「I」がなかったのだ。母はTAXIチケットと書いたつもりだったが、TAXチケットになってしまっていた。しかし、数秒で全てを悟った父は、すぐに笑顔になった。

確かに、プレゼントのチケットには「I」がなかったが、私達の家には「愛」があふれていると思った。

優秀賞

3/18放送「まっしゃん」鹿島由美(大阪府)

生まれつき”怒り顔”の人もいるけれど、まっしゃん(仮名)は、おかめインコのような頬の赤い”笑い顔”の女子だった。「わあ、ええ匂い」「サラの畳やからや」と新設の中学校の柔道場に忍び込んで相撲を取ったり、かねてから目論んでいた給食の”二度食い”を実行したり。一度目は真っ先に、二度目は終了間際に食堂に駆けつける作戦が成功したが、その日のオカズはメルルーサの唐揚げで「マズったワ。カレーの日にすればよかった」と二人で反省した。高松塚古墳が発見されたと知り、見学に行ったものの現場は竹の柵で厳重に囲われていて、「タダで見せるのが惜しいんや」「ケチやな」と二人で憤慨してジュースを飲んだ。

「かっしゃん(私の呼び名)立ち合い人になってくれる?」小学六年のとき、まっしゃんに頼まれた。クラスの男子Y君と決闘するという。Y君が何か気にさわることをしたらしい。温厚なまっしゃんも腹が立つことがあるのかと、「よっしゃ、まかしとき」と請け負ったところ開始直後の前蹴りがY君の股間に決まって、まっしゃんの秒殺完勝に終わったのだった。そんなまっしゃんが真顔を一度だけ見せたことがある。体育の授業の前、体操服に着替える際に、「わあ、ツギがあたってる」とクラスの目敏い女子が私のシャツを指差した。母が破れた箇所を繕っていたのである。「何言うてるん。ここにかっしゃんのお母さんの愛があるのやんか」私が反応するより早く、まっしゃんが私をからかった女子をひた、と見すえた。この時、私はまっしゃんの怒りの目を初めて見たのだった。Y君との決闘の時でさえ”笑い顔”でファイトしたのに。その凄い表情のあと、まっしゃんはいつもの愛顔を私に向けた。その日の帰り道、二人でたこ焼きと回転焼きを食べた。五十年たった今でもなつかしい。

優秀賞

3/15放送「四つ葉のクローバー」竹内維吹(愛媛県)

ある日のこと、珍しく神妙な面持ちで帰ってきた父が家族全員を召集した。一つの部屋に集められ、父に何の話か聞いても
「全員がそろってから」
と、何も話してくれない。母も弟も僕も、いつもとあまりにも違う父の様子に不安を抱きつつ、兄の帰りを待つ。兄がバイトから帰ってきて、異変に気づき表情を硬くする。家族5人がようやくそろい、父がようやく口を開いた。父が発した言葉は、
「庭で・・・・四つ葉のクローバーを見つけた!ラッキー!」

本当に時間を返してほしい。さっきまでとは変わって満面の笑みの父に少しだけ、ほんの少しだけイラッとする。でも、そんな小さな幸せでこんなにも笑顔になれる父をうらやましく感じる自分もいた。くだらないことで長時間待たされ、四つ葉のクローバーを見つけた報告をされただけなのに、「それだけ?」と、その部屋は笑顔で満たされていた。

幸せは人の数より少しだけ少なく用意されているとよく聞く。人の幸せは平等だとも聞く。そういうのはだいたい物質的な豊かさの話をしているのだと思う。生まれた場所や環境など、自分の努力で覆しようのない差はどうしてもある。だけど本当の幸せは、四つ葉のクローバーのような小さな幸せを見つけられることだと思う。「幸せ」はそこら中にたくさんあって、その小さな幸せを他の人より多く見つけられる人は自分を幸せだという。自分は不幸だという人は小さな幸せを見つけるのが下手なだけ。僕はそう考える。

僕はまだ生まれてから十七年しかたっていない。最高の幸せを知っているわけでもないし、絶望の底のような不幸を味わったこともない。でも、だからこそ幸せが大切だとわかる。幸せは周りに伝搬する。まずは自分が幸せであるように幸せを上手に見つけられるようになり、父のように周りの人を笑顔にできる人間になりたい。

優秀賞

3/14放送「今は昔、君から届いたラブレター」来住裕志(東京都)

今日も夫婦げんかをした。いつものより、かなり激しいやつだ。長い結婚生活を経てきた。妻は戦友であるはずだ。いや、待てよ。私だけの錯覚か?

二人の息子は、社会人デビューを果たし、住宅ローンも一応返した。一戦交えたが、アメリカン・プロレスのように、もう、慣れっこになっているはずだ。とはいえ、うちの妻は、かなり手強い。

理系妻、おそらくは、それを配偶者に持つ者にしか共感してもらえないだろう。中盤から終盤にかけての技の流れは、ほぼ、頭に入っている。事実を積み上げて論証し、それを基に、正論で冷静にキメにくる。時として、レトロスペクティブなデータをも持ち出し、急所を的確に突いてくるのだ。長年、一つ屋根の下で暮らしている。弱点を一番理解している妻に抗うことなど、そもそも、無理な話である。とにかく、彼女は弁が立つ。対してこっちは、生粋の文系。それも一時期、ほんの少しだけ流行った程度の社会学部出身である。はなから、勝負はついているのだ。

そんな妻とやり合った後には、決まってすがる秘密の場所がある。打ちのめされ、よろよろしながら階段を上り、二階の寝室に逃げ込む。いわゆる、ロープ・ブレイクである。クローゼットの扉を開き奥にある引き出しに手を伸ばす。「あった」一通の古びた手紙をまさぐる。妻には、絶対にバレない場所にそれは隠してある。二十九年前の君・・・当時は婚約者・・・から届いたラブレターの文面に目を落とし、いつものフレーズを凝視する。「一日でも早く、あなたと一緒に暮らしたいわ」

それまで硬直していた頬が、思わずゆるんだ。しかとうなずき、大きく深呼吸して息を整える。大切な手紙を、元の場所にそっと戻す。そして、君の待つリング(いや、リビング)にそそくさと戻っては、大きな声でいつもこう謝るのだ。

「さっきは、ごめんなさい。言いすぎた。悪いのは、僕の方だよ!」

優秀賞

3/13放送「しりとりの続き」御手洗彰彦(愛媛県)

今から十二年前の話になる。私が、三歳だった頃だ。やっと言葉を上手く話せるようになった時、ひいおじいちゃんにしりとりをしようと言われた。私は、しりとりというのが何か分からなかったので聞き返した。ひいおじいちゃんは丁寧に説明してくれた。三歳の私が理解できるように物を使って説明してくれたおかげで、しりとりができるようになった。

こうして、毎週ひいおじいちゃんの家に行って、しりとりをするのが、私の楽しみの一つになった。私は最初のほうは、弱すぎて相手にならなかった。すぐに最後が「ん」の文字が来て終わってしまっていたからだ。けれど終わった時には、ひいおじいちゃんと私で大爆笑していた。そして、少しふり返りをして、新しい言葉を私が一つ覚えて、またしりとりを再開させる。また私が負けるの繰り返しだった。負けることは分かっていたが楽しかった。毎日のようにしりとりのことを私は考えていた。

次第に私も強くなっていき、ひいおじいちゃんと互角の勝負をするようになった。そして時は過ぎ三年がたったある日、家に一本の電話が届く。なんとひいおじいちゃんが救急搬送されてしまったのだ。あまりの突然のことに私は大泣きした。もうしりとりができなくなってしまうんじゃないかと思った。

不吉な予感は的中し、翌日ひいおじいちゃんは息を引き取った。あまりのショックに私は立つことができなくなった。その時だった。ひいおじいちゃんの左手に何か書かれてあるのが分かった。そこには手書きで、「ありがとうあきひこ」と書かれてあった。実はしりとりの最後の文字が「あ」で終わっていて、次はひいおじいちゃんからだったのだ。

私はこれを見てとても嬉しかった。亡くなる直前までしりとりを考えてくれていたのだ。そして私はしりとりで返した。「こちらこそありがとうひいおじいちゃん」と。そして最後のしりとりも私が語尾に「ん」がつき私の負け、やっぱりひいおじいちゃんにはいつまでも勝てなかった。

優秀賞

3/12放送「美術室の窓」倉田久子(愛知県)

今から十数年前になる。中学校の南校舎に面する細い道が、私の通勤路だった。三階に美術室があり、放課後はここで、次男の所属する美術部が活動していた。残業で帰宅が遅くなった日、自転車を止めて見上げると、開いている窓から息子の姿が見えることがある。窓の前の流しでパレットを洗っているのだ。あ、と心の中で小さく声を上げる。シンクロするのだろうか。息子も私に気づき、あ、と笑顔で小さく手を振る。隣にいた友人が先に気付いて、彼に教えている時もある。息子が視線を落とし、ぱっと顔を綻ばせる。軽く手を挙げた彼に、私も笑って大きめに手を振る。

毎日家で顔を合わせていても、いちいち笑ったりしないのに、なぜだろう。家の外に出ると、会っただけで頬が緩んでしまう。いつもと違う空間で家族に出くわす非日常。それが嬉しくて笑みを作るのだろうか。私が見上げたその時、息子がたまたま窓の前に立っていて、互いに気づくという偶然。私は感謝する。小さな奇跡の瞬間に。

美術部は、息子の卒業後に廃部になった。顧問を引き継ぐ先生がいなかったからだ。彼は、希望を抱いて入学した高校で運動部に入り、部活動中の事故で命を失った。

息子が亡くなって一年、二年、泣きながら南校舎の前を通過して仕事に通った。帰りは必ず自転車を止めて、美術室の閉じられた窓を見上げてしまう。もはや儀式以外の何者でもない。あの奥で彼は、心洗われる風景や生き生きとした生き物たちを描き、仲間と語らい、未来を夢見たのだ。

大切な人が微笑む。ただそれだけで幸せになる。そんなことに今ごろ気づいた。その後転職した私は、もうあの道を通らなくなったが、美術室の窓は今、自分の中にある。十五年と九か月を生き切った息子を想う時、窓は開く。そこに現れる、白いカッターシャツの少年の、ふんわりとした笑顔を反芻しながら私は生きていく。再び彼に会える日まで。

優秀賞

3/11放送「小さな神様と私」森田帆南(愛媛県)

「心臓に穴が開いている」

妹が生まれた時、お医者さんがそう言った。幼い私にもその言葉の意味は、すぐに理解できた。死んじゃったらどうしよう。そんな不安が私の頭をいっぱいにした。数本の管が繋がれ、重々しい機械が作動している。他の赤ちゃんとはまるで違う様子に私の不安は加速するばかりだった。

数日経ったが、お母さんと妹は病院から帰ってこない。私は藁にもすがる思いで、近所の徒歩数分の公園へと向かった。

公園の隅に建てられている小さな祠。誰かが手入れをしているのかも分からないような祠。私は落ちているキレイな葉っぱや木の実を拾って、祠の前に置いた。そして手を合わせ「妹が元気になりますように」と一心に願った。これが日課になっていた。

しばらくして願いが通じたのか、お母さんが妹を抱いて帰ってきた。私は嬉しくてすぐに駆け寄った。妹の手を握ってみると、ギュッと握り返してきた。とても温かくて、今生きているということを実感させられた。

そんな妹も何事も無く、元気すぎるくらいに成長した。先日、妹と歩いているとあの祠と目があった。

「こんなところに祠あったんや」

妹が不思議そうに言った。

「あるよ、昔から」

私は当時のことを思い出しながらそう返した。妹はふーんと言い、その祠を見つめていた。私はその様子を見て、思わずクスクス笑ってしまった。

「え?なに笑ってんの?」

妹は私を不審そうに見ていたが、それにますます笑いがこみ上げてきた。理由を問いただす妹を横目に私は「ヒミツ」と言い、また歩き出した。小さな祠に奉られている小さな神様に感謝しながら。

愛顔感動ものがたり 表彰式イベント 概要
愛顔感動ものがたり 表彰式イベント
日時・場所
2024年2月24日(土)愛媛県県民文化会館
メインホール 表彰式イベント 14:00~16:30 ※事前申込
サブホール 10周年スペシャルステージ 11:30~13:00
県民プラザ 「愛顔の写真」展示 11:00~17:00
県民広場 キッチンカー 11:00~15:00
※メインホールでの表彰式イベントは事前申込による入場券が必要です。(全席指定)
入場料
入場無料
内容
メインホール 14:00~16:30
表彰式イベント

令和5年度受賞作品を披露します。エピソード作品はピアノとギターの生演奏にのせて豪華ゲストが朗読。フィナーレでは「この街で」を歌いましょう。

サブホール 11:30~13:00
愛顔感動ものがたり10周年スペシャルステージ

10年の間に寄せられた8万点を超える作品の中から、「感動のエピソード」を朗読でお届けします。スペシャルゲスト・トワエモワのミニライブも。

県民プラザ 11:00~17:00
「愛顔の写真」展示

写真部門受賞作品をパネル展示。歴代知事賞作品は愛媛県庁本館をイメージしたメタバース(仮想空間)でご覧いただけます。

県民広場 11:00~15:00
キッチンカー

鯛めしからスイーツまで県内の美味しいものが集合。
入場券のお申込み方法
メインホールで行われる表彰式イベントの入場券をご希望の方は、郵送・FAXもしくは専用申込フォームにてお申し込みください。
申込みの際には、氏名、郵便番号、住所、電話番号、同伴者氏名(5名まで)、車いす席の利用の有無をご記入ください。
申込者の方に同伴者分も含めて入場券を送付します。(2月上旬以降、順次発送予定)

郵送
送付先
〒790-8570 松山市一番町4丁目4番地2
愛媛県文化振興課 文化振興グループ

FAX
FAX番号 089-913-2617

専用申込フォーム
愛媛県の電子申請システムからお申し込みください。
お問い合わせ
愛媛県文化振興課
TEL:089-947-5480 [受付時間 平日 8:30-17:00]
E-MAIL:bunkashinko@pref.ehime.lg.jp

Eventイベント情報

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