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なつかしシアター「モノトーンの彩り」

「なつかしシアター モノトーンの彩り」は当社の開局70年記念番組として、2023年(令和5年)7月から12月まで放送されました。それぞれの時代を懸命に生きた愛媛の先人達の日常を映し出しており、大正時代や昭和初期のフィルムなど歴史的価値の高いものも含まれます。
モノトーンの画面に鮮やかな彩りが甦る"ふるさと・愛媛"をDVDでご堪能ください。

岩城一平

演出:岩城一平
(映画監督・
脚本家)

田中和彦

ナビゲーター:
田中和彦
(南海放送会長)

DVD販売

南海放送開局70年記念番組『なつかしシアター モノトーンの彩り』のDVDを販売いたします。
2024年2月9日(金)発売。
価格:2,500円(税込)
『なつかしシアター モノトーンの彩り』全26話+特典映像。
明屋書店(全店)、愛媛CATV(松山市大手町)、南海放送ウィットショップ(通販、要送料)でお買い求めください。
※明屋書店では予約も受け付けています。
南海放送ウィットショップ

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  • 特典映像 田中和彦、岩城一平の収録こぼれ話
    【彩り放課後倶楽部】
  • 予告動画 大正時代篇
  • 予告動画 別子銅山篇
  • 予告動画 年代ロールスーパー篇
  • 予告動画 泣いた笑った篇
  • 予告動画 和彦篇

こぼれ話

第25回(最終回)

(田中)最終回はあの伊丹十三。伊丹監督の若かりし頃。まだ映画は作ってない頃ですよね。(岩城)当時放送された番組「失われたふるさと」ではテロップは「俳優 伊丹十三」と出ています。(田中)あの伊丹十三が映画作ったんだって、て言われて(大ヒットした映画)「お葬式」がでてくるんだ。

第24回

(田中)船で学校の先生を子供が見送るシーン。こんなことあります?良く残ってたなあ。私も紙テープで見送られたことが一度ありますけど、なかなか長いんですよあのテープ。最近はゴミになるから見なくたったけど、ロマンチックですよ。

第23回

(田中)「開拓」という言葉、愛媛でイメージすることができなくて、へぇそうだったのかというのが率直な感想。開拓というと北海道とかアメリカの西部をイメージする。愛媛にもあったんだ。戦後なんていうなれば最近じゃないですか。パイオニアスピリットですねえ!

第22回

(田中)三八豪雪)、私は小学校3年生だったですけど、記憶あります。地元が伊予市だったので(雪害は知らず)狂喜乱舞してました。子供が雪だるまを作ろうとしたり、雪合戦してしまうのは、万国共通なんですかね。今思うと、何が楽しかったのかな(笑)。実際こうやって見てみると、すごかったんですね。積雪2メートルか!

第21回

(田中)歯医者が嫌いでね。昔、痛くてどうしようもなくなって近くの歯医者に行ったら、「久万のオンゴクにいるわけでもあるまいし、こんなにひどくなるまでなんで放っておくの」って怒られたんですよ。遠国(オンゴク)つまり、ど田舎に住んでいるわけでもあるまいし、という意味なんですよね。おじいちゃんのお医者さんでしたけど、"久万の遠国"という言葉があったことを教えられました(笑)。とはいえ、映像みたら全然田舎じゃないじゃない。

第20回

(田中)(男女が一緒に入る共同風呂の風習について)よそから嫁いでくるお嫁さんにとっては「(恥ずかしくて)たまらなかった」そうですよ。そらあ、ねぇ(笑)。昭和52年、おおらかな、牧歌的な時代だったんだなあ。超牧歌的農村コミュニティ!

第19回

(田中)ラジオでね「佐礼谷(されだに)のおばあちゃんが、"きのう"のことを"きにょう"って言ってた」ってメールが来てたんで、その、佐礼谷かと。昔は、佐礼谷に法事で行ったりすると、戻ったら家族全員ぐったり、くらいの田舎だったよ。昭和15年といえば、すでに日中戦争が始まっていて、日本が世界から孤立していく流れの中で、一方では日本の田舎にテコ入れして経済復興を図ろうとしていた、ということなんですね。

第18回

松山高等女学校(現松山南高)映画部による撮影。(田中)86年前ですから、当時16歳の女子高生は今102歳。100歳以上は愛媛県に今1,500人いますから、私が撮りにいったのっていう方がいるかも知れない。映画部があったってことにまずびっくり。キャーキャー言いながら(撮影)やったんだろうか(笑)

第17回

(田中)僕、伊予市の小学校だったもんだから、遠足で行ったことがある。JRに乗って水族館見て。長浜赤橋の開通式、こんなに盛大だったんだぁ。最近ではね、瀬戸大橋の開通の時は、ついに(本州と繋がる日が)来たかと思ったけど、ここはここでまた。(岩城)当時としては一大イベント。

第16回

(田中)どういういわれで、わが社に映像が残っているんですかね。(岩城)これも寄付ですかねぇ。(田中)自転車で通勤している人が大勢映っていましたけど、昭和12年の自転車は、結構すごいですよ。そんなに持っているモノじゃないですよ。ぜいたく品ですよ。岩城君のころは高校祝いで何貰った?(岩城)腕時計とかが多かったですね。(田中)やっぱり。(岩城)でも僕は現金でくださいって、テレビとビデオが欲しかったので。(田中)ロマンチックじゃないねえ(笑)

第15回

(岩城)ご好評にお応えすべく、もう一本見つけてきましたよ。昭和初期のフィルム。(田中)道後温泉って、源氏物語にでてくるんですね。紫式部、道後温泉を知ってたんですねぇ。当時の松山名物っていろいろ映っていたけど、そういや姫だるまって最近見なくなったなあ。贈答品で都会の人に送るってこともなくなったね。昔は玄関に入るとね、セットで置かれていてね。

第14回

(田中)どこで見つけてくんの、こういう古いの!(笑)「最近できた愛媛県庁舎」って、できたの昭和4年なのよ。90年前の映像ってこと?!その当時の松山観光映画ってことだね。なんでウチにこの映像があるんだろう。(岩城)寄付されたんじゃないですかね。捨てるのも忍びないので、テレビ局にって。

第13回

水中翼船って揺れるんですよ。今の大西社長(南海放送)が当時カメラマンで、僕(田中)と広島に出張したことがあるんです。ところが、ひどく船酔いしちゃって、ずっとトイレに籠っていたんですよ。なんか悔しくてね。いつか逆襲してやるって(笑)。で、ふと思ったんです。「坊っちゃんにでてくる赤シャツも、ほんとは良い教頭先生なのにね、無茶苦茶言われて悔しかったろうな」と。音戸の瀬戸から宇品港に着くまでの間に例の「赤シャツの逆襲」って話を思いついたんです。港で「大丈夫ですか?」って気遣う大西カメラマンに「赤シャツも悔しかったろうと思うんだよ」って言ったんだけど不思議に思っただろうな(笑)

第12回

おたたさん~たくましき女性たち~
今回は実際のおたたさんのカラー映像&肉声付きでお送りしました。おたたさんとは松前町は松山市で魚を売り歩いた女性たちのことです。(田中)小学校のころ、電車におばさんたちの一群が乗り込んできて、であの迫力でしょ。子供心に怖かったですよ(笑)、あれがおたたさんだったよね。僕は伊予市だったけど、おたたさんの営業エリアだったのか、太刀魚の塩焼きがやたら多かった気がしますね。うちのメニューだけだったかもしれないけど(笑)。

第11回

旧・肱川町はクヌギを原木とする木炭の生産が盛んでした。昭和37年の映像は成型木炭の工場の様子。成型木炭とは粉状にした炭に粘着剤を混ぜて使いやすい大きさに整えたものです。(田中)そういえば、職員室のストーブの近くに成型木炭の袋があったのを覚えています。話は変わりますが、ローカル放送局が炭焼き小屋に例えられたことがありました。エネルギー革命で炭焼き小屋が不要となったように、ローカル放送局もメディア革命で同じ運命をたどると言われました。会議などで、炭焼き小屋という言葉は何度も口にしたことがありますが、実は映像で見るのはこれが初めてです(笑)

第10回

今回は、昭和36年の八幡浜をあれこれと見ていきます。八幡浜は、日本の魚肉ソーセージ発祥の地、(田中)我々が子どもの頃は、ソーセージっていうと魚肉ソーセージの方を普通に食べてたと思います。八幡浜はスナックの多い街でもあるんだけど、でも歌手の森進一はその八幡浜のことを、名曲「港町ブルース」で「や"は"たはま」と発音してると、地元の方はクレーム言ってる。僕たちからしたら、その中間に聞こえるんですけどね。

第9回

「新居浜・別子銅山の暮らし」昭和36年ごろにおける最高水準の市民生活が見られます。「冷蔵庫・洗濯機・テレビ」を「三種の神器」と評して憧れる時代がありました。電化生活が幸せを呼ぶと言われた高度経済成長期です。「この辺では、〇〇さん家が最初にテレビを買った、洗濯機を買った」としばしば話題にしたと聞きます。心の平穏が約束されていた時代だからこそ、物が満たされることを素直に喜べたのだろうとも思います。

第8回

道後温泉から車でわずか10分で行けるのが奥道後です。でも、歴史ある道後温泉とは違って奥道後は1960年から作られたリゾート地域のことなんです。高度経済成長の波に乗って目まぐるしく開発されていった奥道後の歴史を振り返ります。(田中)当時、家族で今日は贅沢をするぞってなったら 「ジャングル風呂に連れていってやる」っていう、父親がヒーローになった瞬間があったってことは覚えてます。

第7回

犬寄トンネルは正式名を犬寄ずい道といい、犬寄峠を貫く、全長749メートルのトンネルです。その工事は、国道56号 最大の難関と言われ、昭和43年から、まる2年をかけておこなわれました。峠越えに車で40分かかっていた場所ですが、トンネルのおかげで、わずか5分で済むことになります。(田中)工事関係者の方にとって、自分の作ったトンネルを通るって時は、我々とはまた違った感慨があったんでしょうねえ。

第6回

「三崎の貝、三崎の肉」の回。男の海女さんのことを海士(あまし)と呼びます。かつては、三崎牛という肉牛が飼われていました。砂浜を歩くたくさんの牛が見えます。田中和彦が三崎高校の生徒に「どこの高校?」と聞いたら「八幡浜の方」と答えたそうです。「"方"ってどこよ?!(自分の高校くらい堂々と名乗っていいよ)」「三崎高校です」「三崎!突端じゃん!(笑)」半島ならでは謙虚さなのか、思春期の恥じらいからなのか。

第5回

昭和44年夏の甲子園、松山商業対三沢高校(青森)。延長18回引き分け再試合となった決勝戦は高校野球史に残る死闘でした。選手は決勝だけで3試合分を戦ったことになります。応援する側も大変です。目を腫らして見守る者や堪えきれずに顔を覆う者など、「ドラマ」というありきたりの言葉で表現するのが躊躇われるような、重々しさが画面から伝わってきます。

第4回

第5回は、昭和37年、小さな島の夏休み。場所は越智郡(おちぐん)上島町(かみじまちょう)高井神(たかいかみ)小学校。平成の大合併前は魚島村という独立した自治体でした。児童数減により現在は休校となっています。この日は登校日だったようで、学校に集まって勉強しています。人形劇を見たりボール遊びをしたり、全校生徒が一緒に活動ししています。お昼ご飯は、お約束のカレーライス!きっと、この島だけでなく日本中で同じように見られた光景なんでしょうね。大勢の心に思い出として残っているひとコマに違いありません。

第3回

第4回は、宇和島の闘牛。トラクターがない時代、牛は農業に欠かせない存在でした。牛が身近にいたからこそ闘牛も盛んだったのでしょう。多量に飲食することを「牛飲馬食」と表現しますが、精を付けるため竹筒に入れた卵を勢いよく飲ませる、まさに牛飲する様子も見られます。

第2回

7月21日(金)の放送は、今治・桜井の石風呂。名前もずばり「桜井石風呂」で、オープン記念の映像が残っていました。冒頭は餅まきの映像です。おめでたい時は餅まきなんですよね、今も昔も。反対に、今となってはほぼ潰えた石風呂文化ですが、昔は各所にそうとうな数の石風呂があったようで、そこに流れるゆったりとした時間について「彩り放課後倶楽部」では話しています。

第1回

3分の番組に入りきらなかったエピソードをご紹介します。"彩り放課後倶楽部"と名付けました。ほとんど編集していない気楽な動画ですが、お楽しみいただければ。

制作者コメント

今ではスマートフォンの普及によって誰でもいつでも動画を撮れますね。一昔前はビデオカメラ、さらにその前はフィルムキャメラが無いと撮れませんでした。フィルムキャメラは高価ですし、専門の知識がないとまともに操作もできません。まあ要するに動画とは時代を遡るほど貴重なものになっていくのです。フィルム時代の貴重な代物を半年にわたって見ていきましょう。様々な場所、様々な人々のモノトーン映像をいくつも見ていくと、そこに「彩り」も見えるはずです。
なお、番組のナビゲーターは田中和彦会長にお願いしました。畏れ多かったですが番組の内容的にこの方しかいないと思いまして、私は今年をもって「ラジ鬱」の正規リスナーになる年ですのでこれも運命とかなんとか言い訳を用意しておりましたが、そんなことを言わずとも引き受けてくださいました(笑。

演出・岩城一平

演出・岩城一平