皆様は愛媛県松山市出身の秋山兄弟(兄の秋山好古と弟の秋山真之)をご存じでしょうか?
秋山兄弟は明治期の日本の歴史において大変著名な人物です。
司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」にて正岡子規と共に3人の主人公となっています。
下の写真は、松山市の明教館(愛媛県立松山東高等学校内)にある秋山兄弟の肖像画です。

秋山兄弟と聞いて「名前は知っているけど何をした人なの?」という感想を持つ方もいらしゃるかもしれませんので、今回は秋山兄弟の紹介と、愛媛県松山市での秋山兄弟ゆかりの場所や観光地、2人の銅像等をご紹介させていただきます。
県外も含め現存する戦艦三笠や、秋山兄弟のゆかりのある学校やお墓の紹介もさせていただきます。
小説「坂の上の雲」ファンの方や秋山兄弟に興味がある方は、是非松山にいらっしゃって秋山兄弟散策をしてくださいね!
この記事を読んだ方は、秋山兄弟と深い繋がりのある正岡氏子規の記事も是非ご一読ください!
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秋山兄弟(兄の秋山好古と弟の秋山真之)とは?
ではまず、秋山兄弟についての詳細や生い立ち、歴史等についてご説明させていただきます。
秋山兄弟の生涯について

秋山兄弟とは、兄の秋山好古(あきやまよしふる)と弟の秋山真之(あきやまさねゆき)です。
(※「真之」は旧字体では「眞之」ですが、今回は「真之」と表記させていただきます)
愛媛県松山市で旧士族の父から生まれ「明治の奇跡の兄弟」と呼ばれたりもします。
秋山兄弟の人生を簡潔に紹介させていただくと
・両人とも愛媛県松山市の歩行町で生まれ育つ
・特に弟の真之は正岡子規と青春を共にする。
・いったん兄の好古は大阪の学校に通い名古屋で教師になる。
・兄の好古は教師を辞め陸軍軍人になり、東京で兄弟の共同生活をする。
・弟の真之は松山の学校を中退し東京大学予備門の学生を経て海軍軍人となる。
・両人とも「日中戦争」「日露戦争」に従軍し、好古は陸軍騎兵、真之は海軍参謀となる。
・真之は神奈川県で49歳で亡くなるが、好古は71歳と長命し陸軍を退役した後に松山で校長先生となる。
となります。
その秋山兄弟の人生は、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」にて生き生きと描かれています。

秋山兄弟の生い立ちと松山市での生活について

秋山兄弟の父は元々は伊予松山藩の武士で秋山久敬(あきやま ひさたか)という人物です。
松山藩では徒目付という役職であり、実直な人物だったそうです。
ですが松山藩も幕末の戊辰戦争を経験し、江戸幕府側に立っていた松山藩は大変な動乱の時期を過ごします。
明治時代になってからは、久敬は愛媛県の役人となり県の学務係となっています。
その秋山久敬の家から江戸時代から明治時代になる前後に産まれたのが秋山兄弟です。
秋山兄弟は現在の松山城ロープウエィ街辺りの「歩行町(かちまち)」で生まれ育ちました。
後述しますが、現在の歩行町には「秋山兄弟生誕の地」があり、復元された屋敷跡があります。
2人の幼少時代は江戸から明治への時代で元は武士の家庭だったというのもあり、大変な貧乏生活で、兄の好古は家の近くの銭湯でアルバイトをしたりしています。
秋山兄弟の青春の頃

兄の好古は弟より先に松山を出て、大阪の師範学校を卒業した後、名古屋の小学校に赴任し小学校教師となります。
その当時師範学校は無料で入学できてお尚且つ給金がいただける学校だったので、わざわざ大阪の学校に入学したのは貧乏だった秋山家の背景があります。
その当時、明治の日本が正式な学校を造り始めたばかりの時代背景で、好古はなんと18歳で教師となっています。
この経験は、好古が陸軍を退役後に松山の校長先生になったという人生の布石でもあります。
弟の真之も大変学問に強かったので、松山中学校(現在の松山東高校のルーツ)を中退し東京の東京大学予備門(現在の東京大学教養学部のルーツ)に入り、東京で軍人になった兄の家で共同生活をします。
真之の人生は、好古が先に働き真之の学費等を工面した事実が大きな助けになっています。
写真は現在の東京大学赤門(本郷校舎)となります。

秋山兄弟は2人とも軍人になります

その後秋山兄弟は2人とも東京に渡ったのち軍人になり、お互い陸軍軍人と海軍軍人として「日中戦争」と「日露戦争」に従軍することになります。
兄の好古は陸軍士官学校に入学してから陸軍大学校と陸軍のエリートコースを進み、フランス陸軍へ留学等を経験し、陸軍軍人として大成します。
弟の真之も兄にひっぱられる様に海軍兵学校に入学し首席で卒業、海軍軍人になりました。
陸軍で兄の好古は騎兵隊で活躍し「日本騎兵の父」と称されました。
(※騎兵隊とは、馬に乗って戦う部隊のことです。偵察や敵の攪乱を主目的としています)
日本陸軍が創設されたばかりでほぼ何もないところから、日本の騎兵を完成させたのが好古と言われています。
特に有名なのは、日露戦争にて日本軍の騎兵隊を率いて、その当時世界最強の騎兵と言われたロシアのコサック騎兵隊を破ったという戦歴です。
好古は戦っている最中もお酒を飲むという酒好きの豪傑だったそうです。
弟の秋山真之は海軍の参謀になり、特に日露戦争の日本海海戦では主に作戦を考えます。
海戦中は旗艦三笠の甲板で艦隊司令長官東郷平八郎の横に立っていたほどの重要人物でした。
そしてロシアのバルチック艦隊相手に世界の海戦史上類を見ない圧倒的な勝利に貢献しました。
(※日本海海戦ではロシア艦隊はほぼ全滅、日本連合艦隊はほぼ無傷という結果です)
日本海海戦での、戦艦三笠から敵艦発見を告げる大本営への電文の名文句である
「本日天気晴朗なれども浪高し」は真之が考えた内容で、日本の歴史に深く刻まれている名文句として有名です。
真之は「海軍戦術の神様」と称されました。
弟の真之は最終的には陸軍中将になり、49歳で神奈川県にて没したのですが、
兄の好古は最終的に陸軍大将になり、71歳と長寿を全うしました。
好古は陸軍を退役した後は松山に帰り、松山の北予中学(現在の松山市立北高等学校のルーツ)の校長となっています。
兄弟2人がそれぞれ軍の「中将」「大将」という最高幹部クラスになったというのは、大変な事実です。
写真は日露戦争の旅順攻略戦203高地攻撃で活用された、28センチ榴弾砲のレプリカです。
愛媛県今治市の小島(おしま)に展示されています。
※今治の小島は、来島海峡に浮かぶ周囲約3kmの小島で、明治期に日露戦争の為に造られた「芸予要塞」の砲台跡、弾薬庫、兵舎などが残る歴史的価値の高い島です。
※この大砲はNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の撮影に使われた物です。

写真は日露戦争で秋山真之が乗船し戦った連合艦隊の旗艦である戦艦三笠です。
神奈川県横須賀市の三笠公園に展示されていて、有料で中に入ることができます。

秋山兄弟と正岡子規について

秋山兄弟は正岡子規と強いつながりがありました。
小説「坂の上の雲」では、秋山兄弟と正岡子規の3人が主人公となっています。
特に弟の真之は子規と幼少からの幼馴染で、お互いに元武士の家庭で育ったのもあり、松山市ではずっと同じ学校に通う大変仲の良い友人でした。
秋山兄弟の実家と正岡子規の実家は歩いていける距離にあります。
その後真之と子規は2人とも学問の為に東京に渡り、一緒に勉強し遊び、お互いに切磋琢磨しました。東京生活では同じ下宿の部屋で同棲をしたりしています。
東京の共立学校入学から東京大学予備門入学と進むのも2人とも同じです。
小説「坂の上の雲」内では、何かと真之と子規の仲の良い逸話が繰り返し紹介されています。
その後真之は子規を残し東京大学予備門を中退し、真之は海軍の軍人になり、子規は帝国大学に進学し新聞記者として働く道に進んでいきます。
真之と子規の他にも、夏目漱石(当時の夏目金之助)も2人と東大予備門の同級生で、3人は深い知り合いです。現在の松山市の観光等でクローズアップされる明治期の偉人である「秋山真之」「正岡子規」「夏目漱石」の3人が皆同じ世代で友人だったというのは非常に感慨深い事実です。
下の写真は、愛媛県松山市の子規堂に復元された松山生活での子規が子供の頃の書斎です。
この部屋で真之と子規は語り合いました。

「秋山兄弟巡り」ができる愛媛県観光スポットの紹介
では、そんな秋山好古、秋山真之兄弟と関連する愛媛県の名所をご案内させていただきます。
秋山兄弟ファンの方や坂の上の雲ファンの方は、是非愛媛県観光の参考になさってくださいね!
秋山兄弟生誕の地 愛媛県松山市(秋山兄弟の愛媛県の名所その1)


秋山兄弟生誕の地にある、馬に乗った秋山好古の像です。

秋山兄弟生誕の地にある秋山真之の像です。

秋山好古像と秋山真之像は向かい合ってお互いを見つめています。

秋山兄弟生誕の地では、復元された建物の部屋を見ることができます。

秋山兄弟生誕の地では、貴重なオリジナルの映像を見ることができます。

秋山兄弟生誕地の建物の横には立派な道場があり、松山市民の武道鍛錬の場所になっています。



道場内にも秋山真之の像があります。

秋山兄弟生誕地は、秋山好古、真之兄弟が生まれ育った場所です。
元の建物は1945年の松山空襲で焼失しましたが、2005年に全国からの募金によって当時の姿に近い木造平屋建てが復元されました。
室内には兄弟ゆかりの写真や、直筆の書、軍服、遺品などの貴重な資料が展示されており、テレビ画面で貴重な秋山兄弟に関わる映像を見たり、ボランティアの方から解説を聞くこともできます。
庭の桜の木は、春になると大変綺麗な花を咲かせます。
庭には、馬にまたがる好古の銅像と、真之のの銅像が、互いに見つめ合う形で設置されています。
後述する「坂の上の雲ミュージアム」から歩いてすぐなので、必ず両方お伺いしていただきたい名所です。
秋山兄弟生誕地住所: 愛媛県松山市歩行町2-3-6
坂の上の雲ミュージアム 愛媛県松山市(秋山兄弟の愛媛県の名所その2)









司馬遼太郎の名著「坂の上の雲」をテーマにしたミュージアムです。
「坂の上の雲」に登場する3人の主人公、秋山好古・真之兄弟と正岡子規の資料の閲覧など、様々な学習ができます。
秋山兄弟にご興味がある方は、必ずお伺いしておきたいミュージアムです。
小説「坂の上の雲」の世界観を、実際の展示物や模型で奥深くまで堪能できます。
ミュージアムカフェでは、愛媛県の銘菓や、「坂の上の雲」の登場人物の肖像画が描かれた容器に入ったドリンクを堪能でき、こちらも良い記念になります。
明治時代の日本に興味がある方、小説内で激動の時代を足掻いた主人公たちにもう一度会いたい方は、是非お越しください。
坂の上の雲ミュージアム住所:愛媛県松山市一番町3-20
瀬戸内海を望む秋山兄弟の銅像 愛媛県松山市(秋山兄弟の愛媛県の名所その3)





伊予鉄の梅津寺駅から歩いてすぐの丘の上に、秋山兄弟の銅像が並んでいます。
兄も弟もそれぞれ陸海軍の軍服姿で、2人とも美しい瀬戸内海を望みながら配置されています。
2人の銅像は戦前に道後公園にありましたが、二次大戦中にに金属物資として軍に供出されました。
真之の銅像は石手寺に再建されましたが、その後梅津寺の大丸山にありました。
そして現在、上記の経緯を経て秋山兄弟の銅像は並んで見晴山に立っています。
お互いに愛媛県の瀬戸内海に向かって立っていますが、実は兄の好古は日露戦争の主戦場だった満州の方角に向いており、弟の真之は日本海海戦が行われた日本海の対馬海峡方面を向いています。ですので2人が見つめる方角は微妙に違います。
像の立つ「見晴山」は徒歩数分で頂上がある標高14メートルの低い丘で、梅津寺の海岸を一望できる絶好のビュースポットとなっています。
最寄り駅の「梅津寺駅」はドラマ「東京ラブストーリー」や数々の映画やドラマのロケ地として有名な場所です。
銅像の近くには、愛媛県のゆるキャラ「みきゃん」の聖地として有名な「みきゃんパーク梅津寺」や松山市の海の見えるカフェで有名な「梅津寺ブエナビスタ」もあり散歩等に最適です。


秋山兄弟銅像住所: 愛媛県松山市梅津寺町
小島(おしま)明治期の芸予要塞跡 愛媛県今治市(秋山兄弟の愛媛県の名所その4)









今治市沖の来島海峡に浮かぶ小島(おしま)は、明治時代に建設された旧陸軍の「芸予要塞」跡が色濃く残る島です。
小島には、日露戦争時にもしも瀬戸内海へロシア艦隊が攻めてきた用に、当時この様な要塞が作られていたのです。
秋山兄弟が実際に小島に行ったという記録は残されていませんが、芸予要塞は秋山兄弟がまさに活躍していた同時代のロシアからの攻撃の為の軍事施設なので、秋山兄弟がロシア軍と戦った明治時代期の軍事の詳細を見たり感じたりするのには、是非お伺いしておきたい場所です。
赤煉瓦の砲台跡、弾薬庫、司令塔跡などが良好な状態で保存されており、ノスタルジックな廃墟探索や歴史散策ができる島です。
小島の見どころとしては、島内に南部・中部・北部の3つの砲台跡があり、煉瓦造りの建物が当時のまま残されています。特に中部砲台跡は保存状態が良いです。
中部・北部砲台跡から行ける高台の司令塔跡からは、瀬戸内海と来島海峡大橋を一望できます。

小島にある日露戦争で活躍した28センチ榴弾砲のレプリカ



写真は小島の港付近にある、日露戦争の旅順攻略戦203高地攻撃等で活用された、28センチ榴弾砲のレプリカです。この大砲はNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の撮影の為に作られ、実際に撮影に使われた物をこの島に運び込んだ物です。
元々小島には明治時代の当時にこの大砲が対ロシア軍艦用に6門配備されていて、それが大陸へ運ばれ、2門が旅順攻撃に使われた、という歴史があります。
ですのであの有名な203高地攻略の大砲は、当時実際にこの島から大陸に運ばれ活躍した!ということです。
この榴弾砲の威力は絶大で、旅順要塞攻撃や映画にもなった203高地攻撃の日本軍の勝利は、この大砲を活用したことが大きな勝因の1つと言われています。
この大砲を見ると、NHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」をご覧になった方や、映画「203高地」をご覧になった方は「あー!あの有名な大砲だ!」と思い出していただけるのではないでしょうか?
この有名な28センチ榴弾砲の実物大レプリカを実際に見る為だけでも秋山兄弟ファン、坂の上の雲ファンとしては満足ですよね。これが未だに愛媛県にあるというのは非常に感慨深いです。
下の写真は、この28センチ榴弾砲の土台の写真です。
この砲は日露戦争旅順攻略戦の203高地攻撃時に、満洲軍総参謀長の児玉源太郎は中々攻撃が立ち行かない状況を見て旅順に赴き、第3軍司令官の乃木希典を訪ね作戦会議に臨み「24時間以内に203高地の正面に重砲陣地の移動」というかなり無理な命令をしました。
そしてそれから重砲隊や工兵の命がけの作業により24時間で移動が完了します。
司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」では、その大砲の移動が大きく功を奏したこともあり、203高地は日本軍の手に落ちたと表現されています。
203高地が落ちたことによりロシア軍の旅順港は日本軍から丸見えになり、さらにこの大砲の攻撃によってロシアの旅順艦隊は全滅します。
この「28センチ榴弾砲の24時間での移動」という逸話は、203高地攻略戦というより日露戦争の山場と言ってもよい話なのです。
この写真の土台を見ると「この大きな土台が24時間で移動されたのか!」ととにかく驚きます。

下の写真は、実際に28センチ榴弾砲等が設置されていた砲台跡です。
島には24センチカノン砲や軽砲も配備されていました。

下の写真は当時の実物の大砲が存在していた頃のものです。

小島の住所:愛媛県今治市来島
小島へのアクセス例……
小島へは、今治市の波止浜港から渡し船に乗って上陸するか、しまなみ来島海峡遊覧船で付近を遊覧することができます。
(渡し船)
JR予讃線「波止浜駅」下車→波止浜港→渡船で10分
波止浜(今治)〜来島〜小島〜馬島
(しまなみ来島海峡遊覧船)
しまなみ来島海峡遊覧船 株式会社しまなみ
田丸橋 愛媛県喜多郡内子町(秋山兄弟の愛媛県の名所その5)


NHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」をご覧になった方は、田丸橋の写真を見ていただくと「あの橋だ!」とたくさんのドラマ内の名場面を思い出していただけるのではないでしょうか?
田丸橋はドラマの重要な場面で何度も登場したロケ地です。
弓削神社から車で15分位のところにある田丸橋は、屋根付きの木造橋で麓川の棚田風景の中に溶け込んでいます。
元々雨風から橋を守るために屋根がかけられ、現在では内子町の指定有形民俗文化財になっています。
数々の映画やドラマのロケ地としても有名です。
田丸橋住所:愛媛県喜多郡内子町河内
お囲い池跡 愛媛県松山市(秋山兄弟の愛媛県の名所その6)




お囲い池(おかこいいけ)跡は、愛媛県松山市勝山町(現在の松山市青少年センター)にあった、江戸時代から利用された歴史のある水練場(水泳場)の跡地です。
江戸時代から明治時代にかけてのプール跡といった感じです。
藩政時代は藩主の別荘地として灌漑池が掘られ、明治以降は市民の水泳場として利用されました。
「坂の上の雲」では弟の真之が頻繁に通い、鎮台さん(陸軍の軍人)ともめて喧嘩する場所として有名です。
現在は案内板のみで知ることができますが、松山市内の繁華街から近い場所なので、秋山兄弟の家から真之の気分になり歩いてみるのもよいと思います。
お囲い池住所:愛媛県松山市此花町2−12
秋山兄弟とゆかりの深い松山市の有名な観光地について
道後温泉 愛媛県松山市(秋山兄弟の愛媛県の名所その7)



言わずと知れた松山の道後温泉です。
NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」でもよく道後温泉の入浴シーンが登場します。
特に父久敬と弟の真之が一緒に道後温泉の湯舟に浸かり、父から「短気は損気、急がばまわれ」の話を聞くシーン等は有名ですね。
司馬良太郎の小説「坂の上の雲」内でも、もちろん道後温泉は何かと話にでてきます。
道後温泉本館住所:愛媛県松山市道後湯之町5−6
松山城 愛媛県松山市(秋山兄弟の愛媛県の名所その8)



写真は松山城ロープウェイ乗り場にある「秋山好古」「秋山真之」「正岡子規」の顔はめパネル。

松山城天守閣付近にはNHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」でも、何かと撮影に使われています。
秋山兄弟は幼少期に、松山市内からいつも松山城を見上げていたのでしょうね。
松山城は、江戸時代から現存する天守が有名で「現存天守12城」の1つです。
落雷による焼失などで度々改修・改築が行われ、現在の姿になりました。
重要な門や櫓が沢山あり、難攻不落と言われた立派な構えを直に感じることができるでしょう。
創設者は羽柴秀吉の家臣・加藤嘉明で、関ヶ原の戦いなどで活躍した名将として今なお語り継がれています。
加藤嘉明が1602年頃に着工し約25年かけて築かれた城です。
江戸時代は松平氏が城主を務め、明治維新まで続きました
「坂の上の雲」の主人公の1人である正岡子規も、松山城を対象にした句も複数詠んでいます。
・松山の城を見おろす寒さかな
・城山の浮み上るや青嵐
・松山や秋より高き天守閣
・松山の城を載せたり稲むしろ
・春や昔十五万石の城下かな
そんな松山城も、今や愛媛県を代表する観光スポットの1つになっています。
松山城住所:愛媛県松山市丸之内1
三津浜港 愛媛県松山市(秋山兄弟の愛媛県の名所その9)



三津浜港からは、写真の様に松山城が遠目に見えます。

三津浜は古くから松山の玄関口として栄えた港です。明治時代の松山市では三津浜港が船で遠くへお伺いする為のほぼ唯一の窓口でした。
秋山兄弟や正岡子規も、松山から東京に旅立つ際等に何かと利用した港です。
「坂の上の雲」での、弟の真之が船で東京に行く際の松山の人々のお見送りシーンや、子規の妹である律(りつ)と語りあうシーン等はこの三津浜港だったという設定です。
当時は松山市中心部から三津浜港へは有名な「坊ちゃん列車」が走っていました。
三津浜港の何か懐かしい雰囲気は、未だに三津浜に住む人々によって大切に守られています。
三津には松山市のソウルフードである「三津浜焼き」の店があり、レトロな三津の商店街の散策等散歩するには大変楽しい街です。
秋山兄弟ファンは是非お伺いしたい場所の1つです。
三津の渡し



三津の渡しは、現在でも利用できる無料の渡し船です。
松山港内港地区の三津と港山の間約80mを結ぶ渡船で、年中無休にて無料で利用することができます。
三津の渡しの起源は室町時代にまでさかのぼり、物資輸送や三津浜側にあった洲崎の浜に毎朝食料を調達するため利用したのがはじまりです。
江戸時代の俳人小林一茶も句会に参加するため乗船したと言われています。
生活の足として地域住民に愛されています。
秋山兄弟も正岡子規も当時利用したのかもしれませんね。
三津浜にお越しの際は是非三津の渡しをご体験ください。
大街道と銀天街 愛媛県松山市(秋山兄弟の愛媛県の名所その10)




大街道と銀天街は、秋山兄弟生誕の地や、子規の生誕地、子規旧邸跡に大変近い松山市の屋根付きアーケード商店街です。
秋山兄弟も子規も、この辺りを幼少の頃から闊歩したことは間違いありません。
小説「坂の上の雲」内でも、大街道の名前は何かと登場します。
真之が少年時代に通っていた漢学の学校である近藤元脩の漢学塾も、現在の大街道の辺りとされています。
松山市での坂の上の雲巡りでは2つの商店街を通りながら散策するのが大変よいです。
現存する戦艦三笠について(神奈川県横須賀市)
日露戦争時に真之が乗船し、ロシアのバルチック艦隊と戦った日本連合艦隊の旗艦である「戦艦三笠」ですが、現在は神奈川県横須賀市の三笠公園に記念艦として保存されています。
戦艦三笠(日本海海戦の連合艦隊旗艦で秋山真之も乗船)


戦艦三笠の甲板には、日本海海戦時の真之が立っていたところに下の写真の様に床にパネルがあります。東郷平八郎長官の横となります。




写真は三笠内の士官室。

戦艦三笠は、1902年にイギリスで建造された日本海軍の戦艦で、露戦争において東郷平八郎率いる連合艦隊の旗艦として活躍しました。
現存する世界最古の鋼鉄戦艦でありほぼ原形のまま保存されています。
横須賀の三笠公園に行くと、現在でも有料で三笠に乗船することができます。
秋山兄弟ファンとしては、是非お伺いし乗船したいですね!
乗船した際は、是非「秋山真之が日本海海戦中に立っていた場所」のプレートをチェックしてくださいね。
三笠公園(神奈川県横須賀市)

三笠公園は、神奈川県横須賀市にある日露戦争で活躍した世界三大記念艦「三笠」を保存し公開する「水と光と音」をテーマにした都市公園です。
園内の桟橋から無人島の猿島へ渡るフェリーが運航されています。
三笠公園住所:神奈川県横須賀市稲岡町82
秋山好古と関係の深い学校について
秋山兄弟は、両人とも大変勉強ができたことで有名です。
ですので2人はその当時の一番先進的な学校等に通っていましたし、兄の好古は海軍を辞めた後松山で校長にもなっています。
ではそれぞれ兄の好古と弟の真之の関係のある学校等を調べてみましょう。
「明教館」好古が幼少期に通った伊予松山藩の藩校。※松山中学校のルーツ(現在の愛媛県立松山東高校)
明教館(めいきょうかん)は、江戸時代に伊予松山藩が設立した藩校です。
松山藩主であった松平定通によって建設されました。
江戸時代の主に武士の子供は、それぞれの藩の藩校で学問を学んだのです。
好古は幼少期に明教館で学んでいます。
明教館は、元々現在のNTT西日本愛媛支店の敷地にありましたが、現在の松山東高校の敷地内に移築されました。
写真は現在の愛媛県立松山東高等学校の校門付近です。
松山東高校は、女子ボート部の映画「がんばっていきまっしょい」の舞台としても有名です。

明教館について(愛媛県立松山東高校の敷地内)





下の写真は明教館(愛媛県立松山東高等学校内)にある秋山兄弟の肖像画です。


明教館は、現在松山東高校の敷地内に当時の建物があります。
現存する講堂は木造平屋建ての入母屋造りで60畳の広間があり、当時の藩校建築の面影を今に伝えています。
愛媛県指定の有形文化財となっています。
二次大戦時の松山空襲ではこの辺りも大変な被害がでましたが、松山中学校の先生や生徒がプールの水等を活用し決死の消防活動で、松山市の9割が消失する中で建物を火事から守り抜いたという逸話があります。
隣接する史料館では、正岡子規や夏目漱石、秋山兄弟らの直筆の書簡や資料が展示されています。
※明教館は愛媛県立松山東高等学校の敷地内にあるため、見学には事前の申し込みが必要です。
明教館見学 | 愛媛県立松山東高等学校
「大阪師範学校」好古が入学し卒業。※現在の大阪教育大学のルーツ
大阪師範学校は、明治初期の1873年に大阪に設立された官立(国立)の初等教員養成機関です。日本全国7大学区に設置された官立師範学校の一つであり、現在の大阪教育大学の前身となる重要校でした。
その後府県立の師範学校を経て、戦前の大阪第一師範学校、現在の大阪教育大学などへつながりました。
好古は松山での貧乏な生活の中で、父の久敬が愛媛県庁の学務係だったこともあり大阪のお金のかからない学校の存在を知り、松山を出て17歳で大阪師範学校に入学し後に卒業しています。
写真は大阪府大阪市北区中之島にある大阪府師範学校跡の碑です。

写真は現在の大阪教育大学天王寺キャンパスの校門付近です。

「愛知県師範学校附属小学校」好古が教師として赴任。※現在の「愛知教育大学附属名古屋小学校」及び「愛知教育大学附属岡崎小学校」のルーツ
愛知県師範学校附属小学校は教育実習生を受け入れる実習校であり、公立学校とは異なる教育研究や独自のカリキュラムが実践された、国立の教員養成機関附属小学校でした。
愛知県師範学校附属小学校は、現在の「愛知教育大学附属名古屋小学校」及び「愛知教育大学附属岡崎小学校」の前身となりました。
愛知教育大学(1873年創立)の歴史と共に、教育実習や教育研究を行う機関として重要な役割を担ってきました。
愛知県師範学校があった熱田区白鳥(現在の名古屋学院大学白鳥キャンパス付近)の現在は名古屋市立白鳥小学校があります。
好古はここでいったん小学校の教師となりましたが、職を辞めて軍隊に入ることを決め、東京に移り陸軍士官学校に入学することになります。
写真は愛知県師範学校があった現在の名古屋学院大学名古屋キャンパスしろとり、白鳥公園付近です。

「陸軍士官学校」好古が入学し卒業。※現在の防衛大学校及び陸上自衛隊幹部学校などのルーツ
陸軍士官学校は、旧日本軍において、兵科将校(士官)を育成した全寮制の軍事教育機関です。
主に中等学校卒業者を対象として、厳格な専門教育と部隊勤務を経て少尉に任官する過程です。
当時は陸軍士官学校を出ることは陸軍のエリートコースでした。
陸軍士官学校は明治7年に設立され、好古は明治10年に入学したので、好古の入学は陸軍士官学校ができてまだ3年目のこととなります。
陸軍士官学校は、主に東京の市ヶ谷台(現在の防衛省市ヶ谷地区周辺)にありましたが、2次大戦の戦争中は本科が神奈川県の相武台(座間市周辺)へ、予科は埼玉県の朝霞へ移転しました。
好古の時代は市谷校ですね。
陸軍士官学校跡地の相武台の現在は、大部分が戦後アメリカ軍に接収され、神奈川県のキャンプ座間(在日米陸軍基地)となっています。
写真は市谷の防衛省の敷地内にある旧陸軍士官学校の本部庁舎建物。現在の「市ヶ谷記念館」です。

「陸軍大学校」好古が入学し卒業。※現在の陸上自衛隊教育訓練研究本部などのルーツ
陸軍大学校(陸大)は、かつての日本陸軍において高級参謀や指揮官を養成するための最高教育機関です。
現在の陸上自衛隊教育訓練研究本部に相当し、卒業生は陸軍内での出世が約束された超エリートと見なされていました。
好古は陸軍士官学校を卒業した後陸軍大学校で学び、その後の陸軍でのエリートコースを歩むこととなります。
当時の陸軍大学校跡地は現在の東京都港区立青山中学校となっています。
写真は陸軍大学校跡地にある現在の港区立青山中学校です。

「北予中学」好古が校長として勤務。※現在の愛媛県立松山北高等学校のルーツ
北予中学(北豫中学)は、1900年に愛媛県で開校した私立中学校で、現在の「愛媛県立松山北高等学校」の前身となった伝統的な男子校でした。
好古は陸軍を退役した後松山に戻り、第4代校長に就任しています。
1949年に他の学校と統合され愛媛県立松山北高等学校となりました。
現在の松山北高校は男女共学となっています。
好古校長は決して生徒を叱らず、軍隊式の規律を強いることもしませんでした。
「生徒は兵隊ではない」と語り、一人ひとりの人格を尊重しました。
ですので生徒に大変親しまれたことで有名です。
生徒の異文化体験の為に当時の朝鮮に修学旅行に連れて行ったりもしました。
写真は「旧北予中学校」と解説板がある、愛媛県立松山北高等学校の正門付近です。

秋山真之と関係の深い学校について
「近藤元脩の漢学塾」真之が幼少期に通った塾。※ 愛媛県松山市の大街道にあった私塾
当時の勉強熱心の子供は、まず漢学を学ぶ習慣がありました。
秋山真之は現在の小学校的な教育機関(勝山学校)に入る前に漢学塾で漢学を学んでいます。
真之の通った近藤元脩の漢学塾は現在の大街道付近にあったとされています。
その後近藤元脩の推薦もあり正岡子規らと共に勝山学校に入学しています。
写真は当時の塾の雰囲気が感じられるイメージ画像です。

「勝山学校」真之が入学し卒業した。※現在の松山市立番町小学校のルーツ
「勝山学校」は、明治初期に旧松山藩の藩校「明教館」跡に設立された小学校で、現在の松山市立番町小学校のルーツです。
秋山真之や正岡子規が通った歴史的な学校として有名です。
現在のNTT西日本愛媛支店前にその当時存在し、今では同ビル付近に「松山中学校・勝山学校跡」の碑があります。
現在の番町小学校はその碑からすぐの場所ですが、松山市の中心街にあり、同校は長い歴史のある名門の小学校として有名です。
写真は現在の松山市立番町小学校の校門付近です。
校門から、構内の正岡子規の「旅立ち」の草鞋を履く像が見えます。
横には子規の句碑があり「國なまり故郷千里の風かをる」が刻まれています。
番町小学校の生徒さんは、卒業式等ではこの像の前で写真を撮るのが慣例だそうです。
※子規の旅立ちの像は校門外からでも見えますので、無許可で小学校の敷地内に入るのは絶対に控えましょう。


「松山中学校」真之が入学し中退した。※現在の愛媛県立松山東高等学校のルーツ
松山中学校は松山城の北麓に位置し、旧藩校「明教館」の跡地に設立されたので上記の「勝山学校」と「勝山中学校」はほぼ同じ場所ににあった様です。
松山中学校は愛媛県における近代教育の拠点で、秋山真之や正岡子規が学び2人とも東京の共立学校受験の為(現在の東京大学受験の為)中退しています。
明治期の松山中学校は、現在の愛媛県立松山東高等学校の前身です。
現在の愛媛県立松山東高校は別の場所にあり、進学率の非常に高い松山市の名門高等学校として有名です。
松山中学校は夏目漱石が英語教師として赴任した「小説、坊っちゃん」の舞台としても知られています。
写真はNTT西日本愛媛支店前の敷地にある「漱石ゆかりの松山中学校跡」の碑です。
「漱石先生のみち」の碑もあります。



旧制松山中学校のシンボルツリーとして「ユーカリの木」があります。

写真は現在の愛媛県立松山東高等学校の校門付近です。
松山東高校は、女子ボート部の映画「がんばっていきまっしょい」の舞台としても有名です。

「共立学校」 真之が入学した。※現在の私立開成中学校・高等学校のルーツ。大学予備門受験のために通学
明治期の共立学校は、佐野鼎(かなえ)が東京の神田に創立した英語や洋学の私塾で、現在の私立開成中学校・高等学校です。
当時の共立学校は東大予備門(現在の東京大学教養学部)に入学する際の予備校的な役割を担っていた様です。
欧米の教育を取り入れた男女共学の先駆的な学校であり、後に高橋是清が校長を務めるなど、近代日本の人材育成に貢献しました。
小説やドラマ「坂の上の雲」では、共立学校で真之や正岡子規が高橋是清から英語を学ぶシーンが登場します。
共立学校はその当時、現在の東京都千代田区神田淡路町にあり、跡地は千代田区立淡路公園となっています。公園には「開成学園発祥の地」の石碑が建っています。
現在の私立開成中学・高等学校は東京都荒川区西日暮里にあり、日本を代表する進学校として有名です。
写真は現在東京都荒川区西日暮里の私立開成高校校舎です。

「東京大学予備門」真之が入学し中退した。 ※後の第一高等中学校のルーツ(現在の東京大学教養学部)
明治時代の東京大学予備門は、1877年(明治10年)に設立された東京大学(法・理・文・医)へ進学するための4年制(のち3年制)準備教育機関です。
官立東京英語学校と開成学校普通科を統合して発足し、高度な英語による授業が行われました。
1886年に第一高等中学校(後の第一高等学校)へ改組されました。
そして現在の東京大学教養学部となります。
正岡子規も真之と一緒に入学したことで、小説「坂の上の雲」内では東京大学予備門時代の2人の生活風景や遊び、当時の2人の考え方等がよく描写されています。
写真は現在の東京大学教養学部駒場博物館(旧制第一高等学校の図書館)です。

「海軍兵学校」真之が入学し卒業した。 ※現在の防衛大学校及び海上自衛隊幹部候補生学校などのルーツ
海軍兵学校は、かつて日本海軍の将校(士官)を養成した軍のエリート教育機関です。
真之は東京大学予備門を辞め海軍兵学校に入学したことで、その後の海軍士官人生を決めています。
設立は東京の築地で真之も築地の校舎へ通いましたが、後に広島県の江田島に移転し、真之の故郷松山には近くなりました。
世界三大兵学校の一つに数えつられ、厳格な規律と高水準の教育で知られていました。
約1万1千名の海軍将校を輩出しましたが、1945年の二次大戦の敗戦により廃校となりました。
現在の防衛大学校及び海上自衛隊幹部候補生学校にあたります。
明治の海軍兵学校の場所には現在の築地にある国立がん研究センター敷地内に「海軍兵学校寮跡」の碑があります。
防衛大学校は現在神奈川県横須賀市にあり、江田島には海上自衛隊幹部候補生学校があります。
写真は築地の海軍兵学寮跡の碑です。

写真は広島県江田島の旧海軍兵学校の校舎で、現在は海上自衛隊第1術科学校や幹部候補生学校などになっています。

「海軍大学校」真之が教官として勤務。※現在の海上自衛隊幹部学校(目黒)などのルーツ
海軍大学校はかつての日本海軍において中堅士官に高度な軍事学や兵術を教授した、最高位の海軍将校教育機関です。
主に大尉や少佐を対象に参謀や指揮官に必要な知識を教育し、卒業はエリートコースとして大佐や将官への出世に大きく影響しました。現在は存在せず、海上自衛隊幹部学校に相当します。
真之は海軍のアメリカ留学から帰国した後に海軍大学校の教官となっています。
真之から学んだ海軍将校達はその後真之と共に日露戦争に参加し、真之の講義内容は日露戦争における日本海軍の勝利の礎となりました。
明治の海軍大学校の場所には現在の防衛省目黒地区があり、未だに旧海軍施設が残されており、歴史的建造物として防衛省の敷地内で使用されています。
秋山好古と秋山真之 それぞれのお墓について
秋山好古のお墓は、現在愛媛県松山市と東京都港区に分納されています。
秋山真之のお墓は当時の海軍の本拠地横須賀から近い神奈川県鎌倉市にあります。
私が2人のお墓詣りにお伺いした感想は、2人の墓とも未だに綺麗に掃除が行き届いており、きちんと花が手向けられていたのが印象的でした。
※秋山兄弟のお墓は観光地では無く、一般の方々の墓地区画の中にある普通のお墓なので、
お伺いするのであば観光目的では無くキチンとお墓参りをする気持ちでお伺いしましょう。
他のお墓のお墓詣りの方々のご迷惑になりそうな行為は慎みましょう。
秋山好古のお墓※分納(愛媛県松山市)

好古のお墓は2ヵ所に分納されています。
1つは道後にあり、道後温泉の先の一般の道後鷲谷墓地内にあります。
秋山好古の墓地住所:松山市祝谷東町442
秋山好古のお墓※分納(東京都港区)

好古の墓のもう1つは東京都営の青山霊園内にあります。
青山霊園は日本の偉人たちの墓が多いことで有名です。
小説「坂の上の雲」の主要登場人物の1人である広瀬武夫の墓もここにあります。
広瀬武夫は弟の真之と同じ海軍で仲が良く、日露戦争で没しました。
のちに海軍の軍神になった人物です。
青山霊園の住所:東京都港区南青山2-32-2
秋山真之のお墓(神奈川県鎌倉市)

秋山真之のお墓は神奈川県鎌倉市にある「鎌倉霊園」にあります。
真之が乗船していた「戦艦三笠」のある横須賀港の三笠公園から比較的近い場所にある墓地です。
鎌倉霊園の住所:神奈川県鎌倉市十二所512
「秋山兄弟」と「小説・坂の上の雲」の愛媛県名所スポットめぐりあとがき
さて今回の秋山兄弟についての記事はいかがでしたでしょうか?
松山市はまさに「坂の上の雲の街」で秋山兄弟や正岡子規の生まれ育った場所として見所がいっぱいです。
司馬遼太郎小説のファンの方、明治期の日本を知りたい方、秋山兄弟の歴史と触れ合いたい方は、是非愛媛県にいらっしゃってください!
愛媛県民は皆様を心からおもてなしさせていただきます。

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